ヴェロッキオ工房で経験を積んだレオナルド・ダ・ヴィンチ。
このあと、やがて独立することとなりますが、20代後半までのレオナルド・ダ・ヴィンチを追っていきましょう!
「荒野の聖ヒエロニムス」では、苦行する聖人を通して見える、画家の精神世界と解剖学への深い探求に迫ります。
若きレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた未完の名作《東方三博士の礼拝》では、革新的な構図と動きにあふれるこの作品が、ルネサンス芸術に与えた影響を紹介します。
依頼者とのギャップに苦悩した初期のレオナルド・ダ・ヴィンチ
苦労のもととなったレオナルド・ダ・ヴィンチの価値観
「受胎告知」に続いて、作品の描き方に、独自の視点や価値観を持つようになったレオナルド・ダ・ヴィンチは、絵の依頼者の好み、当時の世の中で親しまれてきたスタイルとのギャップで苦労することになります。
聖書の題材「聖ヒエロニムス」
キリスト教美術では、伝統的に「聖ヒエロニムス」を題材に描く場合、書斎でラテン語聖書を翻訳している姿がよく描かれます。
または、「聖ヒエロニムス」が、砂漠の中でたった一人で神に祈りを捧げている姿が描かれることもありました。
そして、ライオンがそばに描かれることが多くあります。
聖ヒエロニムスがライオンの足に刺さったとげを抜いてあげたため、ライオンは聖ヒエロニムスのそばを離れなかったという逸話からです。
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記述書に忠実なレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖ヒエロニムス」
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた聖ヒエロニムスは、この伝統的なスタイルとは異なります。
それは、レオナルド自身が読んだ、聖ヒエロニムスによる記述書に、忠実に基づいて描かれています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品に描かれた聖ヒエロニムスは、画面右上にいる神に助けを求めるかのように 視線を上に向けて仰いでいます。
ひざまづき、神に祈りを捧げる聖人の右手には石が握られていますが、その石で自らの胸を打ち続けているのです (>_<)
胸の部分がうっすらと黒く描かれているのは、何度も胸を打ったことを示しているのでしょう。
ヴェロッキオのもとで解剖学を学んでいたレオナルド・ダ・ヴィンチの描写は、非常に生々しく、痛々しい印象を与えます。
荒野の聖ヒエロニムス Leonardo da Vinci, St Jerome
依頼者の期待を裏切ったレオナルド・ダ・ヴィンチの革新的な表現
レオナルド・ダ・ヴィンチの「聖ヒエロニムス」は、私たちにぬぐい去ることのできない人間の欲望と、断ち切ることのできない苦痛を感じさせ、強く心を揺さぶります。
こうした表現は、当時の画家が依頼者に下絵を示していた慣習からすると、驚きをもって受け止められたことでしょう。
実際、レオナルド・ダ・ヴィンチの下絵を見た依頼者が依頼を断ったとしても不思議ではありません。
当時の他の画家たちが描いた「神の導きによって悟りを開いた聖人の姿」とは大きく異なる表現がそこにあったからです。
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチはというと、そのころの慣習や価値観にまったく関心がなかったようなのです。
今となっては、「西洋絵画の流れを変え、歴史を築いた巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ」として語られますが、この時代に生きたレオナルド・ダ・ヴィンチは、自らの価値観ゆえに大変な苦労をしてきたという訳です。
未完成の苦悩を経て「東方三博士の礼拝」制作の挑戦
苦い失敗の後に
聖ヒエロニムスが完成することなく終わってしまったあと、レオナルドの父ピエロが新しい仕事を見つけて来てくれました。
父ピエロは、フィレンツェ郊外にあるアウグスチノ修道会のサン・ドナート聖堂(現在は消失しています)の公証人の仕事をしていました。
その新しい仕事とは、その修道院の祭壇画です。
ヴェロッキオ工房の職人のひとりとして受けた依頼ではなく、直接の依頼になるこの仕事に、レオナルドは期待をもって臨んだことでしょう。
イエスキリストが誕生する場面「東方三博士の礼拝」
レオナルド・ダ・ヴィンチが描くことになった、新しい仕事の題材は「東方三博士の礼拝」でした。
つまり、イエス・キリストの誕生の場面を描いたものです。
伝統的には、馬小屋の中に聖母マリアと生まれたばかりの幼子イエスと、夫ヨセフや牛、ロバの姿が描かれることもあります。
そして、幼子の誕生を祝福するために、三人の博士たちがうやうやしく登場するのが定番の構図です。



よくクリスマスに飾られて目にする、あの小さな「キリスト生誕のジオラマ」のテーマとなっているものですね。
祝福と恐怖が同居する、受け入れ困難な力作
続いて、レオナルド・ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」を見てみましょう。

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品では、前景に、聖母マリアと幼子イエス、そしてひざまずいて礼拝する三人の博士たちが、三角形の構図で描かれています。
彼らの背後には半円形に並んで同行者たちが描かれており、その中には、右端の羊飼いの若者として、若いレオナルド自身の自画像と思われる人物も含まれています。
背景左側には異教の建物の廃墟があり、その上で人々が修復作業をしている様子が見えます。
右側には馬に乗って戦う男たちと岩場の風景が描かれており、そこには、ユダヤ王ヘロデが幼児を探して殺す、恐ろしい殺戮の場面が描かれています。
このように、画面には祝福の喜びと恐怖の現実が同時に表現されているのです。
そして、廃墟や遺跡内の騎手は、レオナルド独自の透視投影技法によって立体的に表現されています。
このように描かれた「東方三博士の礼拝」を、サン・ドナート聖堂の修道士たちが受け入れるのは、困難だっただろうと思われます。
そして、またも未完成のまま、レオナルドの「東方三博士の礼拝」は終わってしまうのでした。
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レオナルド・ダ・ヴィンチは、このあと、思いがけずにミラノに行くことになります。
ここから続く30代の人生では、苦労の中での転換期とも言える出来事が、いくつもあります。
そしてまた、いくつもの傑作も生まれました。
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頬は絶食のためやせ衰えていたが、私は凍えるように冷えた体の中に、燃えるような欲望の火を抱えていた。肉体はほとんど死んでいるかのようだったにもかかわらず、欲望の炎が湧き上がり続けた。(ヒエロニムスからの手紙383-384)