レオナルド・ダ・ヴィンチ出生の秘密

家系のどこにもない名前
レオナルド・ダ・ヴィンチという名前は、「ヴィンチ村のレオナルド」という意味です。
彼が生まれた当時は、自分の家系の名前や両親の職業を付けて名乗るのが一般的でした。
たとえば、父親がミケーレという名前であれば「レオナルド・ディ・ミケーレ」、
仕立屋(サルト)の息子であれば「レオナルド・デル・サルト」といった具合です。
しかし、伝記では、レオナルドの名前にそのような慣習はまったく見られません。
それは、レオナルドの生い立ちが複雑なものだったからなのです。
父と母の儚い恋の結実として
レオナルドの父、セル・ピエロは、代々公証人の家系に生まれ、当時の活発な経済の中で着実に仕事を重ねていました。
彼は貴族や成功した実業家を顧客に持ち、その有能さと誠実さで広く信頼を集めていました。
いっぽう、母親というと、名前はカテリーナといい、近年の研究によれば、彼女は各地で売られた末にこの地に辿り着いた、奴隷出身の女性であったことが明らかになっています。
レオナルドは、そんな二人の短くも儚い恋の結実として、この世に生を受けました。
それは同時に、慎重に扱わなければならない複雑な出来事でもありました。
慎重に扱わなければいけない出来事
有能で評判の高い若き公証人ピエロにとっては、自らの名誉を損なうわけにいかない大問題だったのです。
この大問題に主導権を握ったのは、ピエロの父、生まれてくるレオナルドの祖父であるアントニオでした。
アントニオは、カテリーナの出産に際して、自宅から3キロ離れた郊外の静かな農村に小屋を借りました。
そして、人々の噂話や好奇な視線から離れたその場所で、
1452年4月15日 西洋美術史にその功績を残した偉大なる人物は、
誰にも知られずにこの世に生を受けたのです。

短い母親との生活
出産からわずか2ヶ月後、レオナルドの祖父アントニオの手配でカテリーナは農夫の男性と結婚しました。
もちろん、それはアントニオのカテリーナに対する配慮であり、カテリーナは安定した生活を送っていました。
その後、レオナルドには4人の弟妹が生まれ、幼少期はカテリーナのもとで過ごしています。
父親の、深刻な事情
いっぽう、実父ピエロはというと、裕福な家の若い女性と結婚しましたが、幸運に恵まれず早逝してしまいます。
さらに、2度目の結婚でも子宝には恵まれませんでした。
そんななか、家計の存続や財産の行方が危ぶまれ、ここでも再び、祖父アントニオが動きます。
彼はレオナルドを自分たちの家に迎えることを決めたのです。
私生児として生まれた自分のこと
ずっと後のことですが、レオナルドは自分の両親についてこのように語っています。
正式な結婚、そしてそれが政略結婚で愛情のないものだったら、そこに生まれる子供は、無能で臆病者である。しかし、両者の大いなる愛と熱望から愛の営みを行えば、そこには、知的で愛情深い子どもが生まれる。
レオナルドは、複雑な生い立ちに、自分が愛情によって結ばれた両親のもとに生まれてきたことを、強く信じていることがわかりますね。
私生児として生きた少年時代

秘密の出生から5年が経ち、ヴィンチ村の人々も「あの家には私生児がいるらしい」という事実に慣れてきました。
そして、時期を見ていたアントニオは、家計の存続のため、カテリーナからレオナルドを引き取ったのです。
そして、レオナルドの存在を「資産申告書」に記載しています。
この家計の記録には名前を記載したにもかかわらず、レオナルドの名前は正式な家系名ではありませんでした。
「レオナルド・ディ・ピエロ・ディ・アントニオ」のように、祖父の名前が続く形式ではなかったのです。
父親の名を持たない「レオナルド」という名前から、(それでも認めない子)であることがわかるのです。
スケッチに夢中になった少年時代
レオナルドは5歳から14歳まで、父親のもとで生活しています。
母親のもとにいた時より、生活は裕福ではあるものの、私生児としてのレオナルドが受けた教育は必要最低限のものでした。
扶養者であった祖父アントニオや、自分の息子に興味のない父ピエロが、レオナルドにはラテン語の読み書きや、古典文学や哲学などの教養は必要ないと考えたのです。
そこで、家庭教師にも恵まれず、本を買ってもらったこともなかったレオナルドは、自らの好奇心を満たす方法を模索していました。
昆虫や植物などの自然を丁寧に観察し、その様子をスケッチしていたのです。
悔しさが見える手稿の文章、天才の素描
レオナルドの初期の手稿であるCodex Trivulzianus: (トリブルツィアーナ)には、悔しい気持ちで次のように書かれています。
私に文学的教養がないから、あるものは、私のことを文字を知らない人間だと断じれば、それだけで私をもっともらしく非難できると思っていることを、私は十分承知している。彼らは、私が文字を知らないから、自分の取り扱おうとするものを、十分に表現できないと言うだろう。
これらの、レオナルドの思考の過程や自己表現の試みを知る貴重な資料は、
Google arts &Cultureで見ることが出来ます。
レオナルド、ヴェロッキオ工房の弟子となる

見出された絵の才能
レオナルドが14歳になった頃、❝興味のない息子❞に早く仕事を見つけ、一人前にしてやらなければならないと父ピエロは考えていました。
そして同時に、この頃にはすでに、息子には絵の才能があり、将来性があると見込んでいました。
ある日、ピエロはレオナルドが描いたいくつかのスケッチを手に取り、それを仲の良い友人で、当時人気のあった工房を営んでいるアンドレア・ヴェロッキオのもとに持って行きました。
「もし、レオナルドが絵に専念したら、どの程度の成果が出るか、しっかり判断してほしい」と頼んだのです。
もちろん、ここでいう「成果」とは、仕事として成り立つかどうかという意味であり、有名な画家になれるかどうかではありません。
ヴェロッキオは、独学ですべて学んだというレオナルドのスケッチの束の、そこに描かれたものを見て、驚愕しました。
そして、自分の工房に迎え入れることにしたのです。
弟子入りしたのは、美しい少年
ヴェロッキオは、工房に弟子として入ったころのレオナルドを、ダヴィデ像のモデルにして制作しました。
ヴェロッキオがイメージする、ダヴィデの柔らかい巻き髪、上品な顔立ち、典型的な美少年の容姿を、レオナルドが持ちあわせていたことがわかりますね。

「ダヴィデ」 アンドレア・ヴェロッキオ作1475年
忙しい工房の中で
フィレンツェの芸術市場は競争が激しく、ヴェロッキオ工房は繁盛していて、仕事も絶え間なく入ってきました。
その中で、ヴェロッキオは仕事を効率的に進めるための独自のシステムを築き上げていました。
ブロンズの彫刻、旗のデザイン、祭壇画などを手がける際、まず彼自身が大まかな構想を練ます。
そして、時には主要な細部まで決定したうえで、その後の仕上げを弟子たちに任せるのです。
ときには熟練した弟子が、自らの裁量で一つの作品を完成させることもありました。
このようにして、ヴェロッキオの工房からは、複数の手による作品が次々と生み出されてきたのです。
この忙しい工房の中で、レオナルドは、20歳でマエストロの資格を得るほどの腕前になっていきました。
それでも、レオナルドは、すぐに独立するのではなく、24歳頃まではヴェロッキオ工房に在籍し、共同制作に協力していたといわれています。
そのため、今日ではどの部分を誰が担当したのか、あるいは原作者が誰なのかを特定することが難しくなっています。
しかし、この点こそが、研究者にとって魅力的な探求の対象となっているのですね。
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ヴェロッキオ工房でのレオナルドの活躍は、ますます盛んになっていきます。
そして、この工房で、のちに歴史に残る作品も生み出されることとなります。
以下の記事で、この続きを紹介しています。












Fumie Tamazawa様
たまたまサイトを拝見し、私も同様な研究と展覧会などを開催してきましたのでメールを出させて頂きました。
相互に情報交換やご協力ができるような状況が作れれば幸いです。
ご関心があれば、当方関連の資料などを送ります。
取り急ぎ、要点のみにて失礼いたします。
コメントありがとうございます。
私の方こそ、何かの機会に勉強させて頂ければ大変光栄に存じます!