青年期から40歳を過ぎたころまでの、ミラノで過ごした20年間に、レオナルド・ダ・ヴィンチが完成させた油彩画はわずか5、6点にすぎません。
その代わりに、彼が最も情熱を傾けたのは人体への尽きることのない関心、
すなわち解剖学の探究でした。



人体への尽きることのない興味
盛んにおこなわれていた解剖実験
当時、人体解剖は大学や画家たちの工房で盛んに行われていました。
ルネサンス期は人間そのものを科学的に理解しようという気運が高まり、医学教育や芸術表現の革新にとって解剖学的な知識が不可欠と考えられていたからです。
そのうえ、病院と教会、墓地が隣り合っていたため、一定の手続きを踏めば遺体を入手することは簡単なことでした。
貧しい家族から買い取る例もあれば、こっそり墓場から遺体を持ち出す芸術家の話も伝わっています。
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチはそうした方法を選びませんでした。
彼は病院に出入りし、正式な許可を得たうえで、規則に従いながら解剖に取り組んだのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチと100歳の老人の解剖記録


レオナルド・ダ・ヴィンチは、ある病院で出会った100歳の老人についての印象深いエピソードを手稿に残しています。
彼は老人に健康状態を尋ね、しばらく言葉を交わしました。
老人は「自分は年老いてはいるが、特に痛みはなく、ただ体が衰えてきたように感じるだけだ」と語ったといいます。
しかしレオナルド・ダ・ヴィンチの関心は、その言葉に哀れみを寄せることではなく、老人の身体そのものに向けられていました。
やがて老人は、ベッドに腰かけたまま静かに息を引き取りました。
レオナルド・ダ・ヴィンチはその臨終を見届け、のちに「私はこの老人の遺体を解剖した」と手稿に記しています。
まさにそのために、彼が老人に近づいていたことがうかがえます。
手稿には「かくも甘い死の原因は、心臓やその下部を栄養する動脈への血液不足により意識を失い、非常に穏やかに亡くなった」と記され、さらに解剖によって血液が脚に届いていなかったことを発見したと書き残しています。
ただ、手稿に残されただけで、論文にして発表されることもなかったこの事実は、人類史上最初に記録された動脈硬化の観察でした。
そして、レオナルド・ダ・ヴィンチはそれだけでは満足せず、直後に2歳の幼児の解剖も行いました。
老人の体と幼児の体を比較し、特に血管の様子の違いを細やかに記録しています。
人体解剖と多様性へのまなざし
当時の証言によれば、レオナルド・ダ・ヴィンチは30体あまりの人体解剖を行ったといわれています。
男性のほか、当時としては珍しい女性の解剖、さらに動物の死骸の解剖にも取り組みました。
病院に遺体がない場合には別の方法で入手し、自宅で解剖を行うこともあり、必要とあれば仕事場に何日も遺体を置いたままにすることさえありました。
素描に没頭するあまり、死体の悪臭に気づかなかったとも伝えられています。
このエピソードは、幼い頃に、昆虫や爬虫類の素描に熱心で、悪臭にも気づかず描き続けていたと父ピエロが語った逸話を思い起こさせます。
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチの関心はあくまで人体の構造や各部位の役割にあり、病気や治療法に向けられたものではありませんでした。
レオナルド・ダ・ヴィンチ自身も次のように語っています。
「多くのものが均整の取れた美しい体だけを研究して、真実を探求しようとしないが、そうであってはならない。なぜなら、人間には均整の取れたものだけではなく、太っている者、背の低い者、背の高い者、瘦せた者、平凡な者もいる。多様性を頭に入れないで絵を描くと、版画のようにいつも同じ人物像になってしまい、まるで皆が兄弟のように見える。このようなことは、非難すべきことである。」
つまり、自然で多様な人間の動作を求めることが目的なのです。
ヴァザーリから見たレオナルド・ダ・ヴィンチ
著述家ジョルジョ・ヴァザーリが次のように記録しています。

ひげや髪を伸ばし放題にした頭部の奇抜な男を見かけると、レオナルドは嬉々として一日中その男について回った。そして、その姿を記憶にとどめ家に戻るやまるで男が目の前にいるかのように素描するのだった。



人体への果てしない探究と哲学的思索
宇宙全体を理解するための鍵
レオナルド・ダ・ヴィンチが抱いた人体への尽きぬ興味は、単なる観察や解剖にとどまらず、やがて哲学的な探究へと発展していきました。
彼にとって人体は、皮膚や筋肉の構造を調べるための対象ではなく、宇宙全体を理解するための鍵でもあったのです。
目に見える現象を注意深く記録するだけでなく、その背後に潜む秩序や法則にまで思索を広げ、人間が宇宙の中でどのような役割を担っているのかを考え続けました。
こうした関心は、彼の芸術や科学のあらゆる試みに影響を与え、のちにレオナルドの思想を象徴する作品や図版の数々へと結実していきます。
知の探求が生んだ理論的飛躍

1496年、ミラノ公国に修道士ルカ・パチョーリがやってきました。
パチョーリは数学や幾何学、経済学において高い知識を持ち、当時の学界でも大きな影響力をもつ人物でした。
レオナルドは彼のそばで、自分に欠けていた理論的な基盤を吸収していきます。
芸術家としての感覚的直観と、パチョーリから学んだ学問的知識を結び合わせることで、レオナルドは当時一流の哲学者や科学者に劣らない体系的な理論を組み立てることができました。
その結晶のひとつが、今日広く知られている「ウィトルウィウス的人体図」です。
「ウィトルウィウス的人体図」に込められた革新

世界の中心にあるのは神ではなく人間である
レオナルドの目的は、円と正方形という二つの単純な図形の中に、人間の身体が完全に内接できることを示すことでした。
彼は、深淵の中心にあたるへそを真円の中心に置き、骨盤のやや上を正方形の中心とすることで、人体が両方に適合することを示しました。
真円は天を、正方形は地を象徴し、この二つが重なり合うことで宇宙そのものを表すとされます。
人間の身体がその双方に調和的に収まるということは、人間が宇宙の中心に位置づけられる存在であることを意味していました。
この解釈は、神を中心とした中世的な世界観からの転換を示すものであり、当時としてきわめて革新的な思想だったのです。
解剖学から哲学への深化
この発想の源には、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの思想があります。
古代ローマの建築家ウィトルウィウスは,著書『建築十書(De architectura)』の中で、
- 建築は自然の秩序に従い、調和ある比例で作られるべきだ
- 人体こそが「調和の基準」であり、そこから比例の原理を学べる
と述べています。
つまり、ウィトルウィウスは、人間の体の比率には幾何学的・数学的な法則が宿っており、その調和は精密に計算できると説いたのです。
ただし彼の関心はあくまで建築や設計の実用に向けられていました。
これに対してレオナルドは、人体を宇宙全体の象徴ととらえ、その法則を哲学的かつ精神的な意味へと高めました。
「世界の中心にあるのは神ではなく人間である」という、人間の尊厳を強調するルネサンス的な思想へと昇華させたのです。
この図版は単なる解剖学的研究にとどまらず、レオナルドの思想と時代精神を象徴する記念碑的な成果となりました。











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