1515年、フランソワ1世は、ミラノ公国を占領しスフォルツァ家を追放しました。
そして、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を訪れた際に、「最後の晩餐」を目にしています。
ルネサンス期の伝記や逸話の収集家であるパオロ・ジョビオによると、フランソワ1世は、例えようもなくこの作品に心を奪われたそうです。
うっとりと、壁画に見とれながら、近くにいる者たちに、「フランスに持って帰るために壁から動かすことは出来ないだろうか」と方法を訊いていたといわれます。
レオナルド・ダ・ビンチ 最後の地フランスへ

フランソワ1世は、ミラノ公国占領の翌年となる1516年、スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチを、フランスへと呼び寄せました。
当時22歳だったフランソワ1世は、64歳のレオナルド・ダ・ヴィンチを大切に扱い、自身が幼年期を過ごしたクロ・リュセ城を住居として差し出しました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、まだ描いている途中だったモナリザに手を加えながら、ここで晩年を過ごすこととなったのです。
モナ・リザは現実に存在した女性の肖像画なのか?
レオナルド・ダ・ヴィンチは、生涯モナリザを手放すことなく、死後、弟子のサライに相続しています。
なぜ、レオナルド・ダ・ヴィンチは依頼者に絵を渡さなかったのでしょうか?
なぜ、長年にわたって、大掛かりな長距離の引っ越しのたびに持ち運び、最後の瞬間まで手を加えたのでしょうか?
そして、この絵のモデルは誰なのでしょうか?
この問いには、様々な説があり、本当のところはいまだにわかっていません。
しかし、この絵にインスピレーションを与えたのが誰であったにせよ、確かなのは、もはやモデル本来の面影がほとんど残っていないということです。
それは、レオナルド・ダ・ヴィンチが原型から離れ、細部に至るまで執拗なまでに描き続けた結果なのです。
何度も、何度も、重ねて描いた絵


上のふたつの写真は、モナ・リザのX線画像です。
このX線画像を見てみると、現在私たちが見ているモナ・リザよりも印象がシャープであることがわかります。
このことから、最初に描かれたモデルの顔の輪郭や目、唇の両端をぼかして、顔の印象を和らげているのがわかります。
つまり、この人を惹きつけてやまない表情は、注意深く、丁寧に何度も何度も、重ねて描いた結果なのです。
そして、レオナルド・ダ・ヴィンチは、モナ・リザの威厳ある堂々としたポーズに固い印象を与えないように、「ほんの少し手の動きを出す」という工夫をしています。
左手の肘は、椅子のひじ掛けを柔らかく握っており、右手は、左手の上に重ねて人差し指に少しだけ動きを持たせています。
この繊細な描写によって、貴婦人らしい威厳と、彼女の穏やかな性格すら想像させるのです。
手放すことができないほど心を奪った女性
レオナルド・ダ・ヴィンチは、時を重ねるうちに、この作品に深く取り憑かれていきました。
あげくには、決して手放すことのできないほど心を奪われ、到達することのなかった理想の姿を追い求めて、筆を重ね続けたということでしょう。
もっとも信頼できる仮説によると、「当初は実在の人物の顔を描くことから始まり、少しずつ理想化された肖像へと変化していった」ということになるわけです。
レオナルド・ダ・ヴィンチ自身が、モデルになった女性の手がかりを消してしまったかのようですね。
モナ・リザのモデルは、どのような顔立ちだったのか?
上部の写真にもありますが、モデルとなった女性が、どのような顔立ちであったかを探る手掛かりは、X線写真を見ることによって、ある程度わかります。
ハーバード美術館では、「このウェブサイトにある画像を、教育および学術目的を含む個人的、非商業的な使用に使用することを奨励しています。この画像の高解像度ファイルをリクエストするには、オンラインでリクエストを送信してください。」とあります。
また、こちらのサイトでは“モナ・リザの顔の部分には30層の薄い塗り重ねがある”など、X線分析による技法の発見が紹介されています。
前述の通り、レオナルド・ダ・ヴィンチが、いかに熱心に描き重ねていったかがわかります。
また、過去には「モナ・リザ」のモデル遺体発掘し顔面復元へという記事さえあります。
モナ・リザの黄昏時の甘美な光の表現
レオナルド・ダ・ヴィンチは、背景と人物を調和させるために、現実にはない幻想的な光を人物や背景に与え、それらをひとつの柔らかな空気の中で調和させています。
モナリザの頬と胸元を照らす夕暮れの光は、肖像画を描くのに最も適した時間だと考えていたのです。

雲や霧のある黄昏時に道行く男女の顔はどんなに優雅で甘美に見えることだろう.
と、レオナルド・ダ・ヴィンチは、言っています。
モナ・リザの背景はどこなのか?
モナ・リザの背景に広がる風景は、レオナルド・ダ・ヴィンチが、既に完成を極めていた一点透視法の「2枚の絵」を、モナ・リザを挟んで左右に組み合わせたものです。
ふたつの異なる景色を、人物と組み合わせることで違和感なく表現するというテクニックに、そしてモナ・リザという人物を演出する効果を出していることに驚かされます。
そして、「その場所は、いったいどこなのか?」については、研究者によって様々に発表されてきました。
ボッビオ説(2021年)
背景に見えるアーチ型の橋が、エミリア=ロマーニャ州ボッビオにある「ボルゴ・デル・ディアボロ橋(悪魔の橋/Ponte Gobbo)」と非常によく似ているという説。
ラテリーナ説(2023年)
衛星画像・地形データ・ドローン映像などを用いた詳細な分析により、背景の橋(アーチが4つある石橋)が、トスカーナ州ラテリーナの「ロマイト橋(Ponte Romito)」であると特定した説。
そして近年、新たに地質学者で美術研究家の アン・ピッツォルッソ が、《モナ・リザ》の舞台は「イタリア北部ロンバルディア州レッコ」であると発表しました。
彼女はレッコの地形を《モナ・リザ》の背景と照合し、アッツォーネ・ヴィスコンティ橋、南西アルプス、ガルラーテ湖などに高い一致を見いだしました。
また、背景の岩の色調がレッコ特有の石灰岩に似ていることから、ダ・ヴィンチが地質学的観察に基づいて描いた可能性を指摘しています。
まとめ
モナ・リザは、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をかけた探究と情熱が詰まった名作です。
モデルとなった女性は、裕福な絹織物商人の妻説、ジュリアーノ・メディチの愛妾説、ミラノ公の未亡人説、マントヴァ侯妃説、レオナルドの母親説など、色々あり謎に包まれています。
技法的には、重ね塗りによる表情の微細な変化や手や体の自然な動き、黄昏時の光や巧妙な背景の描写など、すべてが人物の魅力を引き立てています。
歴史、技法、そしてレオナルドの理想が一体となったこの作品は、今なお私たちを魅了し続けることをやみません。











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